沖縄自由民権運動の父。農政、税制にも多大な功績を残す。 謝花昇氏は、東風平間切の農家の7人兄弟の長男として生まれました。幼少の頃から学業優秀で、明治15年に沖縄初の県費留学生として帝国農科大学に学び、卒業後は県技師に任命され高等官となります。平民出身で沖縄最初の学士、高等官となった謝花は県民の尊敬を集め「東風平謝花」として親しまれました。技師としても、砂糖米穀の現物納制度を現金納制度に改善したり、買い上げ糖制度と貢糖制度の廃止、農工銀行の設立や製糖法の改正、造林指導など多くの実績を残しますが、杣山問題(藩有林開墾問題)をめぐって時の県知事と激しく対立。県政が正しく行われないのは「国会の場で実情を訴えることができないからだ」と考えた謝花は、職を辞して仲間とともに「沖縄倶楽部」結成し、自治権や参政権獲得の必要性を訴えますが、反対勢力の弾圧は厳しく運動は志し半ばで挫折を迎えることになります。沖縄県民が選挙権を獲得し、国会へ代表を送られるようになったのは1912年(大正元年)、謝花没後4年、日本本土から遅れること32年後のことでした。 神谷 夏吉
初代村長。24年間村政を担当。畜産振興にも貢献。 神谷夏吉氏は、1905年(明治38年)に東風平間切長に推挙され、1908年(明治41年)の特別町村制施行により初代村長に就任以来、1928年(昭和3年)の24年間村政を担当しました。この間、1913(大正2年)には県会議員に当選。大正6年に再選されて県会議員となります。この年の11月には皇太子殿下が御渡欧の途次に沖縄に寄港。那覇行啓の際に議長として県勢を報告し、記念品を拝受しています。この他、1919年(大正8年)には志多伯信用販売購買組合長、大正9年には島尻郡産馬組合長、大正10年には産業組合中央会沖縄支部評議員など要職を歴任。1928年(昭和3年)には農林大臣より功労賞が贈られています。さらに、1938年(昭和13年)には農林大臣より馬事振興功労賞、昭和14年には高松宮宣仁親王殿下より「銀製花瓶壱箇」を下賜されています。昭和18年には長年の功績を讃えられ監受褒賞を受賞。畜産組合活動の指導者として多大な功績を残しました。このため、東風平村では1941年(昭和16年)に字屋宜原の南部家畜セリ市場に畜産功労碑を建て、その功績が讃えています。 我如古 楽一郎
東風平初の国会議員。医師として、経済人として沖縄の発掘に貢献。 我如古楽一郎氏は、県病院を退任後、字志多伯で開業。後に字東風平の佐久真に移転。発病後の謝花昇の主治医として看病にあたるとともに、療養資金の募集なども行っていました。また、謝花昇没後はその資金を遺児教育費にあてるなど、遺族の救済援助にも尽力しました。 金城 香助
農協の設立と発展に尽力。村議会議長としても活躍。 金城香助氏は、1946年(昭和21年)の農業共同組合の設立以来、20年近くを組合長として活躍し、村の農協発展に尽力しました。この間、琉球農業協同組合連合会理事、米穀需給審議会委員、全琉農業協同組合会会長、豚価安定審議委員、肉用牛振興審議委員など要職を歴任、沖縄の農業振興に多大な功績を残しました。また、1954年(昭和29年)に村議会議員に当選以来、連続5期当選(4期16年間は議長)。この間、1962年(昭和37年)に南部地区議長会会長、1966年(昭和41年)には沖縄市町村議長会会長に就任するなど行政面でも活躍。1975年(昭和50年)には地方自治功労者として勲五等瑞宝章を受賞、昭和52年には「第一回東風平まつり」において、地方自治功労賞が贈られました。金城氏は幼少時代から「てんのう」の愛称があり、村内外を問わず自他ともにこの愛称で通っていたといいます。農協組合長時代には、酒造工場の開設、家畜導入、貯蓄増強を行うなど、他市町村に先駆けた組合経営は氏の性格をよく表していたと言われています。 大里 康永
「義人謝花昇伝」を著す。東風平町の名誉町民第一号。 大里康永氏は、1920年(大正9年)に上京し、東京深川でセツルメント運動に参画。賀川豊彦氏の社会主義ヒュ-マニズムに傾倒し、当時、貧困と差別にあえいでいた人々のための救済救護活動に力を注ぎました。 ![]()
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